「ある環境革命家の一生」という寓話をご存じでしょうか。環境保護を志した青年が、ある発展途上国の国政を動かして環境破壊を止めようと計画を立て、その国へ飛び立ちます。入国後、演説のために国会議事堂に向かおうとするも、その路上にはおびただしいゴミが!これは見過ごせないとゴミを拾い集めるのですが、あまりにゴミが多く、拾い集めているうちに時が流れ…国会議事堂に到着する前に一生を終える、という話です。

 少々大げさな話にも思えますが、本質的にはけっこう日常生活の中にも散見される構図です。つまり、「大義」と「小義」の区別がつかなくなってしまう構図。この寓話でいえば、国政を動かすという大義ではなく、目の前のゴミを拾うという小義を優先してしまったがために、大義を果たせないまま一生を終えるという結果に終わってしまいました。

 自分にとって何が大義なのか、いま行っていることは何なのか?こういう自分との対話は昨今ますます重要になってきています。それを認識できていないと、きっとゴミ拾いに没頭することになってしまいますね。小義自体も決して悪いことではないので、かえってこれが絶妙な逃げ道となってしまいます。

そもそも、人は生まれてくる時に自分の大義(使命)の書かれた手紙を一緒にもってくると言います。その手紙を開封できれば話は早いのですが、残念ながら一生それは開封できないもの。だから、山あり谷ありの自分の人生を精一杯生きぬきながら、その手紙の中身に、自分の大義に迫るほかありません。中身をチラ見でもできれば楽なのですが…

 こんな哲学臭の漂うことを取り上げるのは、機械化や自動化が想像以上のスピードで進行し、人が働くことの意義や人生の意味を見失いかけている現状があるからです。ベーシックインカム論争はその兆候の一つで、もはや財産のために働く(生きる)時代ではありません。自分のたった一度きりの人生を充実させるために、自分の人生を哲学することが今まさに求められています。

 それは企業でも同じことですね。未だかつてないほどに、企業こそ存在意義を問われています。この数年で経営理念をつくる、あるいは改定する企業が続出しているのは、そこに大義がなければもはや存続できないことは明白だからです。大義に向かってゆるぎない信念で堂々と歩む。人や企業の区別なく、この単純な理を愚直に実践するその中にこそ、未来へと続く道があるのだと信じる今日この頃です。

 

大阪支店長 吉村 徳男