私の娘はよく蚊に刺されます。授業中にも刺されるらしく、痒み止めが欠かせません。先日も雨上がりの蒸し暑い日にボーイスカウトのキャンプに参加したのですが、一晩でなんと両腕に計20か所にものぼる虫刺され跡をつけて帰ってきました。

 

 本人曰く「刺されたら死ぬわけではないし、ちょっとくらいなら血を分けてあげてもいいかな」と、刺された後の痒みは嫌だけど刺されること自体は苦にしていない様子です。

 

 私自身の蚊に対するイメージを押し付けると屋外での活動が嫌になるかもしれません。こんな時、彼女に響く言葉はどんな言葉なのだろうかと色々考えてしまいます。

 

 アドバイスすべきか、静観すべきか、ただ話を聴くべきか、と頭の中で考えて、今回は子供の武勇伝を聴くだけ聴いて、もう少し効き目の強い痒み止めを渡すに留めました。

 

 我が家の他愛のない子育ての話でしたが、職場内でも部下に、後輩に何かを指導・指示する時に、どこまで伝えるのが適正なのか、考えることがあります。

 

 自分自身の経験や知識が邪魔をして必要以上に教えてしまっていないか?任せる、といいつつ、ただ成り行き任せにしていないか?と思い悩むこともあります。

 

 そもそも指導・指示のゴールは何なのか考えてみると、決して指導・指示通りに行動できることが目的ではないはずです。指導・指示を受ける事により自分で判断して行動に移せるようになることがゴールになるでしょう。

 

 指導・指示の仕方については色々なHow toもありますが、一言でまとめるなら「見守る」ということなのではと私は思います。

 

 見守るという言葉は「見る」と「守る」が組み合わさった言葉になっています。

 

 指導・指示は、
 「見る」…上司・先輩の方から適切に相手の様子・状況を把握
 「守る」…失敗した際に守ってやる、安心感を与える
 に置き換えることができますね。

 

 相手がどう感じているか丁寧に様子を確認しつつ、安心して「失敗」ができるように、またその失敗が許容範囲を超えないよう必要なサポートを施すことが「見守る」為に必要なスキルなのでしょう。

 

 一方、部下、後輩の行動を逐一確認し、失敗しないように事細かく指示を欠かさないようにすることはもはや「見守る」ではなく「見張る」といえるでしょう。見張られてしまうと、指導・指示した相手は萎縮してしまい、自分で出来た、やれたという感覚を得難くなってしまいますね。これでは自分で判断して行動に移せるようになるゴールであるには遠くなるばかりです。

 

 こうして概念的には理解をしているのですが、いざ実際に身の回りのことに置き換えてみると具体的にどうあるべきだろうかと悩みが尽きません。

 

 もしかすると「見守る」ということは相手を「見守る」のではなく、自分自身の在り方を「見守る」ことなのかもしれません。

 

神戸支店長 春原 真起子